涅槃の備忘録

政治、生き方、マイクラ関連、映画やアニメの感想とか得た情報をまとめたり持論を述べるだけの備忘録のようなもの

幸せに気づくための仏教の教え

こんばんは。今回は仏陀の教えの話を通して、人生を幸せにする考え方を説いていきたいと思います。

早速ですが、貴方は今、自分は不幸な人間だと思いこのページを開いたのではないでしょうか?また、そうだとして、なぜ不幸だと感じてしまうのでしょうか?これから先の文章を読み進めていくことによって貴方の苦しみがいかに些末なことなのかということ、そして幸福、不幸の本質に気づくことが出来るのではないかと思います。

さて、仏陀という言葉は聞いたことがありますか?聞いたことはあっても、その意味まで知っているという方は少ないんじゃないでしょうか。

仏陀というのは、原語のサンスクリット語で、目覚めた人という意味です。ここでの「目覚めた」というのは、「心、意識の覚醒」ということです。仏陀は、本名をゴータマ・シッダールタと言い、2500年前、初転法輪(最初の教え)で四諦八正道という教えを説きました。この教えは、人に智慧、悟り、涅槃を与えるものだと言われています。平たく言うと、これまで気づいていなかったことに気づかせるということです。

悟りというのは苦しみがなく幸福しかないということに気づくということ、目覚めるということ。智慧というのは、真理をはっきり知るということですが、仏教では、普通の人はこれを知らない、要するに無智であるという見方をします。普通の人は、物事を正しく見ることが出来ず、その結果、苦しみ不幸だと感じるが、物事を正しく見ることが出来る仏陀はその結果苦しみが滅し、心の安定により慈悲に繋がっているという風に思ってください。そして仏陀の意識は、宇宙全体、時間軸全体で合一した意識なのです。

貴方は、今の自分を中心に物事を考えているのではないでしょうか?

これは、今の自分に意識が囚われているとも言えます。ところが、仏陀の意識は、今だけでなく、過去、未来、そして自分だけでなく、他の人々や、生き物全体に広がっています。

人は智慧がなく、無智であるから結果として様々な欲望を持って、今よりもっと、人よりもっとという心の働きが生じる。しかし、それを求めても得られない場合もあるし、得たものを失う場合もある。それにその為に奪い合わなければならない、と仏陀は説きました。人は貪りがある、際限ない欲求がある、それは無智からきているのだと。

もし、貴方の意識が広がり、世界全体に及ぶとどうなるのか考えてみましょう。

貴方は、衣食住が保障されていますよね?

世界では、衣食住の保障がない人、食物連鎖を考えれば分かるように、常に命が狙われている生き物などたくさんいますが、そういった無数の生物ではなく、人間としてそして、安全で豊かな先進国の日本に生まれ、人類史上最も文明の発達している21世紀に生まれ、今こうしてネットを利用出来ているわけですよね。

こうした、ネットやスマホ、PC、電気、車や交通機関といったような科学技術というのは18世紀の産業革命ではじまり、それまでは無かったわけです。私たちの暮らす、日本は民主主義国家ですが、民主主義が始まったのも大体同じ時期で、アメリカで1776年に始まったのが最初でそれまでは無かったわけですよね。それまでの人類史では法の下の平等、科学技術は無かった。ホモサピエンスサピエンスが約3万年前で、原型となるホモサピエンスが約30万年前ですが、その頃から現在まで人間は合わせて5000億人ぐらい生まれたとされており、その中で現在生きているのが75億人、そして日本人だけだと1億3000万人ですね。ということは21世紀の現代の日本人として生まれる確率は大体5000人に1人と言えますね。恵まれた先進国の日本に生まれる確率は5000分の1という幸運なのです。無数の生き物ではなく人間として、その中でも21世紀の日本人として生まれたのに喜び、感謝は少しも感じていないのではないでしょうか?むしろ、様々な不満や怒りがあるのではないですか?

これは仏陀から見ると意識が狭いから生じているといえます。意識が全体に広がると感謝、喜び、そして生き物に対する慈悲が生じるはずなのに、すごく視野が狭いから自分が不幸だと錯覚しているのであり、視野が広がれば自分がいかに恵まれているか分かるのにということです。

要するに仏陀の教えは、心の持ち方で幸福や不幸は変わり、視野の持ち方で幸福や不幸は決まるということです。

これには外的な条件はあまり関係ありません。

たとえ23世紀、25世紀であろうと欲深い普通の人から見ればあまり関係ありません。

昔の人や他の生き物から見るとこの21世紀を極楽のような世界だと、本当は感じてもいいはずなのだが、そうは全く感じていないように、何十世紀たってもその時の人はその時の自分の事だけを考えそれまでの事はすべて当然と受けとめてますからそれに対する喜びや感謝は生じないだろうということです。

不満や怒りを滅して、喜びや感謝を感じるには、自らの視野を広げるしかないという考え方です。自分が幸福であることに気づく、目覚めるということが大事なのです。

幸福に気づき幸福を見ることで幸福になる。逆に不幸を見るものは不幸になる。

幸福により感謝を生じ、不幸により不満が生じる。外的要因以上に自分の心の持ち方で幸福、不幸は変わってくる、ということです。

たとえ同じ人間、同じ環境であったとしても、視野を広げ幸福を見る、そして無数の他者の不幸を見ることにより、感謝と慈悲が湧くでしょう。視野が狭くなれば、自分よりも幸福な人、或いは今より幸福だった過去の自分を見て、不満、妬み、怒り、憎しみ、後悔などが生じるに違いありません。分かりやすく言うと例えば幸福度というのがあったとしましょう。これをAさんは11000持っていてBさんは12000持っている。しかし、その10000の部分については、視野が狭いので見えておらず、1000と2000を比較してたった1000の差でAさんは不幸だと感じているのではないかということです。

さて、最初に智慧というのは、真理をはっきり知ることだと書きましたが、無智というのは、煩悩の根源なのです。

今の自分さえよければ、自分さえ早く楽になればというような意識。これが、私たちの欲望の根源にある意識であり、様々な煩悩、怒り、憎しみ、蔑み、妬みの根源にあるのです。

これさえ取ってしまえば良いのです。

蜘蛛の糸という話は知っていますか?

自分さえ天界に行ければ、極楽に行ければということで無慈悲にも他の地獄の者たちをを退けようとして、逆に地獄に舞い戻ってしまったカンダタという男のお話なんですが、それも同じように今の自分さえよければ、自分さえ楽になれば、という意識が原因となったわけですよね。

先ほど、仏陀の意識は、宇宙全体、時間軸全体で合一した意識と述べましたが、時間において未来の自分まで意識するとどうなるでしょうか。

諸行無常という言葉を聞いたことがありますか?

平家物語などで有名な仏教の教義で、仏陀は、諸行は無常なのだから本当の意味での私の物などないと説いてます。私たちや生まれたものは必ず老いて死ぬのだから、生きているこの瞬間の自分だけじゃなくて自分の過去、現在、未来、人生全体を見るべきであり、そこで無常、すべて移り変わるということが分かるのだと。

つまり、どんなにお金を集めてもいずれ亡くなってしまえばそのうち失われるものだと。それにも関らず、なぜ一生懸命になって集めるのか。

しかし、今の自分にだけ集中して何十年も先の自分に意識が及ばないのが人間の欠点なんですね。もっと先の事考えるべきで、お金や名誉というのは必ず返さなければいけないものであり、借り物なのです。

例えば、スティージョブズは最後このように言った。

生きるために必要な分以上稼ぐ意味があるのか

例えば、ロックフェラーも臨終でこのように言ったとされている。

人生金には何の意味もなかった

仏陀から見るとそれは自分のものではないでしょ、いずれ返すものなのだからと。それが自分の遺族なのか、他の人なのか分からないけど、体さえも自分の物じゃなくて自然に返すものでしょ。私のお金、名誉、体なんてないと。それは単に自分が死ぬまでの間、自然から、神様から、みんなから借りている体であり、お金であり、名誉である。それは全部返すものだから自分が生きるために必要な分だけ取っておいて、あとは分かち合ったほうがより賢い生き方じゃないかと。

このように、人生全体を見ることにより、自分に対する囚われというのは無くなってくるでしょう。人は必ず死に、自分と他人の区別はなくなります。これは科学的にも言われていることですが、99.9%は死んだらその体は他の生き物の物になるわけです。今の自分の体を構成している分子は他人の物から自分に自分の物から他人になるというように自と他の間で生命が循環しているということであり、無常の法則とは現代的に言い換えれば自分と他人の間で循環が起こっているということなのです。

正しい智慧というのは全体を客観的に見るということ。一部を抜き取ってみるなということなんですね。

これって何事でもそうですよね。マスコミの報道なんかでも言えることですが、一部の発言だけ見て全体を見ない、そしてこれは悪だと決めつける。

大事なのは、全体を見て判断することですよね。

彼は、哲学者であり、信じれば救われるとか言ってるわけでは無いんですね。

要するに全体を見ることが大事ということです。

さて、ここまで自分はすでに幸福であるということに目覚めるための教えについて解説したわけですが、これを知り、共感するということは非常に素晴らしいことであり、しかしながら残念なことにそれは稀な機会なんですね。これを法縁といい、仏法に会う縁という意味なのですが、今回、貴方はこのブログを読むことにより、この教えに触れることが出来た、要するに法縁があったわけですね。

これは、無数の生き物の中から人間に、さらに人間の中でも法縁があったということで、仏陀、目覚めた人への第一歩ではないかと思います。

では、今回はこの辺にしておきますね。最後まで読んでくださった方、お疲れさまでした!それと前回、日記を毎日つけると書きましたが、やる気があるときだけにしようと思います。特筆すべきことがあるときとかですね。稚拙な文章ではありますが今後も、様々なテーマの記事をマイペースで更新していくつもりですので温かい目で次回からも是非ご覧ください。